最近話題の大規模言語モデル(LLM)は、まるで人間のように自然な文章を作り出しますが、時々「あれ?」と思うような、常識から外れた回答をすることがありますよね。なぜなら、現在のAIの多くは、人間が当たり前に持っている「常識」を、実は完全には理解していないからです。
「コンピュータに、人間と同じような常識を教え込みたい!」
そんな壮大な夢を掲げ、今から40年以上も前に始まった、まさに先駆的なAIプロジェクトがあります。それが今回ご紹介するCyc(サイク)プロジェクトです。
この記事では、以下の点について、G検定の学習にも役立つよう、分かりやすく解説していきます。
- AIに「常識」を持たせようとしたCycプロジェクトの全貌
- 知識を体系的に表現する「オントロジー」の基本的な考え方
- CycプロジェクトがAIの歴史に刻んだ功績と、直面した課題
- 現代のAI(特に機械学習)との違いと、未来への可能性
AIの根源的なテーマに挑んだCycの物語を知ることは、AI技術の現在地と未来を考える上で、きっと新しい視点を与えてくれるはずです。
Cycプロジェクトとは? – AIに常識を教える壮大な挑戦
Cycプロジェクトは、1984年にアメリカのダグラス・レナート氏によって開始された、野心的な人工知能研究プロジェクトです。その名前「Cyc」は、「encyclopedia(百科事典)」に由来します。
Cycの最大の目標は、人間が暗黙のうちに理解している膨大な「一般常識」をコンピュータが理解・利用できるようにすることでした。
- 「水は濡れている」「火は熱い」といった基本的な事実
- 「人間はいつか死ぬ」「親は子より年上だ」といった関係性
- 「雨が降れば傘をさす」といった行動原理
これら、私たちにとっては「当たり前」の知識を、形式的なデータ(知識ベース)としてコンピュータに入力し、それに基づいて人間のように常識的な推論ができるAIを開発しようとしたのです。まさに、「コンピュータに常識を与える」という、AI研究の究極的なテーマの一つに挑んだプロジェクトと言えるでしょう。
プロジェクトが始まった1980年代は、AI研究における第2次AIブームの真っ只中。特定の専門分野の知識をコンピュータに搭載する「エキスパートシステム」が注目を集めていましたが、Cycはそれをさらに推し進め、特定の分野にとどまらない普遍的な常識を扱おうとした点で、非常にユニークで先進的な取り組みでした。

Cycの心臓部:知識をどう表現し、整理したのか?
では、Cycはどのようにして膨大で曖昧な「常識」をコンピュータに理解させようとしたのでしょうか? その核となるのが、オントロジーを用いた知識の体系化と、専用言語CycLによる知識表現です。
オントロジー:知識に「構造」を与える設計図
オントロジーとは、簡単に言えば「物事の概念を分類し、それらの関係性を定義することで、知識を体系的に整理する手法」のことです。なんだか難しそうに聞こえますが、私たちは日常的にオントロジー的な考え方を使っています。
例えば、「動物」という大きなカテゴリがあり、その下に「哺乳類」「鳥類」「爬虫類」があるとします。さらに「哺乳類」の下には「犬」「猫」「人間」が、「鳥類」の下には「カラス」「ペンギン」がある…といった分類体系です。
Cycでは、こうした概念の分類(階層構造)を「is-a関係(〜は〜の一種である)」として定義します。(例:「犬 is-a 哺乳類」「哺乳類 is-a 動物」)
さらに、「part-of関係(〜は〜の一部である)」(例:「エンジン part-of 自動車」)や、概念が持つ属性(例:「鳥は翼を持つ」「哺乳類は体温を持つ」)なども定義します。
このように知識を構造化することで、
- 属性の継承: 上位の概念の性質が下位の概念に引き継がれる(例:「哺乳類は体温を持つ」→「犬は体温を持つ」)
- 論理的な推論: 定義された関係性に基づいて、新たな事実を導き出す(例:「鳥は通常飛ぶ」「ペンギンは鳥である」→「ペンギンは通常飛ぶ」という推論が可能になる。ただし、例外処理も重要)
といったことが可能になります。Cycは、このオントロジーの考え方を駆使して、複雑な人間の常識をコンピュータが扱える形に整理しようとしました。
CycL:常識を記述するための専用言語
これらの知識構造をコンピュータ上で厳密に表現するために、CycプロジェクトではCycL(サイクエル)という独自の知識表現言語が開発されました。
CycLは、高次論理と呼ばれる非常に表現力の高い論理体系に基づいており、複雑な概念やそれらの関係性を曖昧さなく記述することができます。例えば、「すべての木は植物である」といった単純な事実から、「ある人が何かを知っていると信じている」といった複雑な状況まで、形式的に表現することが目指されました。
また、「マイクロセオリー(Microtheories)」という概念も重要です。これは、特定の文脈や視点における知識のまとまりを定義するもので、例えば「物理学の常識」と「おとぎ話の中での常識」を区別し、矛盾なく知識を管理するための仕組みです。
知識の種類:どんな「常識」が詰まっている?
Cycの知識ベースには、主に以下のような種類の知識が格納されています。
- 一般常識: 世界に関する基本的な事実(例:「空は青い」「一日は24時間」)
- オントロジー的知識: 概念間の分類や関係性(前述のis-a, part-ofなど)
- 推論規則: 「もしAならばBである」といった、論理的な推論を行うためのルール
- 語彙・文法知識: 自然言語(主に英語)を理解し、生成するための知識
これらの多様な知識が、オントロジーによって相互に関連付けられ、巨大な知識ネットワークを形成しているのです。
40年以上にわたる知識入力の道のり
Cycのアイデアは画期的でしたが、その実現には想像を絶する労力が必要でした。なぜなら、人間の持つ膨大な常識を、一つ一つ手作業でCycLを使って入力し続ける必要があったからです。
まさに人海戦術!膨大な知識ベースの構築
プロジェクト開始から数十年にわたり、専門の知識エンジニアたちが、地道に常識を分析し、CycLで記述していく作業が続けられました。
- 開始から10年で約10万の概念を入力
- 2017年時点では、概念は約150万語、ルールや主張は約2450万に達したと言われています。
この作業には「1,000人年をはるかに超える労力」が費やされたと見積もられており、その規模の大きさがうかがえます。
OpenCycとResearchCyc:知識の共有と展開
Cycプロジェクトの成果の一部は、OpenCyc(2001年〜2017年)として一般に公開され、またResearchCyc(2006年〜2019年)として研究者向けに無償提供されました。これにより、Cycの知識ベースは学術研究や他のプロジェクトで利用され、AIコミュニティに貢献しました。しかし、現在はこれらの公開・サポートは終了しています。
Cycは世界をどう変えたか? – 応用分野と立ちはだかった壁
長年にわたる研究開発の結果、Cycの技術は様々な分野で応用が試みられています。
応用分野と実用例
CycプロジェクトからスピンアウトしたCycorp社は、Cycの技術をプラットフォームとして、以下のような分野で企業向けソリューションを提供しています。
- 医療: 診断支援、医療情報の整理・検索
- 金融: 不正検知、リスク管理
- エネルギー: プラントの監視、異常検知
- サプライチェーン管理: 物流の最適化
- テロ対策: 情報分析、知識ベース構築
- 教育: 個別学習支援
特定のドメイン知識とCycの常識推論能力を組み合わせることで、高度な判断を支援するシステムが開発されています。
エキスパートシステムとの関係
Cycは、第2次AIブームの寵児であったエキスパートシステムと深い関わりがあります。
- 共通点: 知識を形式的に表現し、ルールに基づいて推論を行う。
- 相違点: エキスパートシステムが特定分野の専門知識に特化していたのに対し、Cycは分野横断的な一般常識全体を扱おうとした。
Cycは、エキスパートシステムの思想を、より広範で普遍的な領域に拡張しようとした試みと言えます。
立ちはだかった壁:「知識獲得のボトルネック」と批判
輝かしい目標を掲げたCycプロジェクトですが、その道のりは平坦ではありませんでした。最大の課題は、やはり知識獲得のボトルネックです。
- 膨大な手作業: 人間の持つ暗黙的な常識を、形式的なルールに落とし込み、CycLで記述する作業は非常に困難で時間がかかる。
- コストの問題: 長期間にわたる人手による知識入力は、莫大なコストを要する。
- 網羅性の限界: 果たして人間の持つ全ての常識を記述しきれるのか?という根本的な問い。
この「手作業による知識入力の限界」は、エキスパートシステムが直面した課題でもあり、Cycはそれをさらに大規模に抱え込むことになりました。
著名な機械学習研究者であるペドロ・ドミンゴス氏は、Cycプロジェクトを「終わりのないデータ入力の必要性」と「自律的に進化できない点」から「破滅的な失敗(catastrophic failure)」と厳しく評価しています。
実際、CycはAI研究に大きな影響を与えたものの、当初期待されたような「人間並みの常識を持つAI」を広く普及させるには至りませんでした。その理由としては、上記のような知識獲得の困難さに加え、実用的なアプリケーションとして費用対効果を出すことの難しさなどが挙げられます。
現代AI(機械学習/LLM)との対話:Cycから何を学ぶか?
現在主流となっているAI技術、特にディープラーニングを中心とする機械学習や、ChatGPTのような大規模言語モデル(LLM)は、Cycとは全く異なるアプローチを採用しています。
アプローチの根本的な違い
- Cyc(記号主義AI / GOFAI):
- トップダウン: 人間が世界のルールや知識を明示的に定義し、それをAIに教え込む。
- 知識: 形式論理に基づいた、構造化された知識ベース。
- 推論: 論理的な演繹推論が中心。
- 強み: 推論プロセスが透明で説明可能。論理的な一貫性。
- 弱み: 知識の獲得・拡張に膨大な手間がかかる。未知の状況への対応が苦手。
- 現代AI(機械学習 / コネクショニズム):
- ボトムアップ: 大量のデータからAI自身がパターンやルールを学習する。
- 知識: ニューラルネットワークの結合荷重などに暗黙的に表現される。
- 推論: 統計的なパターン認識や予測が中心。
- 強み: 大量データがあれば自動で学習・進化できる。複雑なパターン認識が得意。
- 弱み: 判断根拠が不明瞭なブラックボックスになりやすい。時々、常識外れな判断をする(ハルシネーション)。
まさに、設計図を元に作るCycと、経験から学ぶ現代AI、という対照的な関係です。
歴史的評価と現代における意義
Cycプロジェクトは、実用面での普及という点では限定的だったかもしれませんが、その歴史的な意義は非常に大きいと言えます。
- 先駆性: 「常識」というAIの根源的な課題に、世界で初めて本格的に挑んだ。
- 知識表現の探求: オントロジーなど、知識を形式的に表現・利用するための方法論を発展させた。
- 長期的視点: 40年以上も一貫したビジョンを持ち続けた稀有なプロジェクト(Mathematicaの開発者スティーブン・ウルフラムもこの点を評価)。
そして、現代AIが発展する中で、Cycのアプローチが再び注目される側面もあります。それは、説明可能性(Explainable AI, XAI)と信頼性です。なぜAIがその結論に至ったのかを人間が理解できることは、特に医療や金融など、重要な判断が求められる分野では不可欠です。論理的な推論過程を追跡できるCycのアプローチは、この点で示唆に富んでいます。
未来への示唆:ハイブリッドAIの可能性
Cycプロジェクトの創始者であるダグラス・レナート氏は生前、次のような考えを語っていました。
「LLMのように流暢に言語を操り知識も豊富だが、時に一貫性がなく信頼できないAIと、Cycのように論理的に一貫性があり推論過程も監査できるが、知識範囲や柔軟性に限界があるAI。この両者を組み合わせることで、より強力で信頼できるAIが生まれるのではないか。」
これは、ハイブリッドAIと呼ばれるアプローチで、それぞれの強みを活かし、弱みを補い合うことを目指す考え方です。統計的な学習能力と、記号的な知識・推論能力を統合することで、より人間らしく、かつ安全で信頼できるAIが実現できるかもしれません。Cycの挑戦は、未来のAI開発に向けた重要なヒントを与え続けているのです。
【G検定対策】Cycプロジェクトの重要ポイント
G検定の学習において、Cycプロジェクトは第2次AIブームにおける知識表現とエキスパートシステムを理解する上で非常に重要な事例です。以下のポイントを押さえておきましょう。
- 位置づけ: 第2次AIブーム(1980年代〜)の中心的な研究テーマであった「知識表現」の代表例。エキスパートシステムの考え方を一般常識へと拡張した試み。
- 重要概念:
- オントロジー: 概念を体系的に分類し、関係性を定義する知識表現の枠組み。
- 意味ネットワーク: ノード(概念)とエッジ(関係)で知識を網状に表現する考え方。オントロジーもその一種と捉えられる。
- is-a関係: 上位・下位の概念関係(例:犬 is-a 哺乳類)。クラスとインスタンスの関係。
- part-of関係: 全体と部分の関係(例:エンジン part-of 車)。
- 知識獲得のボトルネック: 人間の持つ知識(特に暗黙知)をコンピュータが扱える形式的な知識に変換することの困難さ。エキスパートシステムやCycが直面した大きな課題。
- 形式論理: 知識を厳密に、曖昧なく表現するための論理体系。CycLの基盤。
- 意義と限界: Cycは知識表現と常識推論の重要性を示したが、知識獲得のボトルネックにより、その構築と維持に膨大なコストがかかるという限界も示した。これは、後のデータ駆動型アプローチ(機械学習)への移行を促す一因ともなった。
まとめ:Cycが未来のAIに投げかける問い
Cycプロジェクトは、「AIに人間のような常識を与える」という壮大な目標を掲げ、40年以上にわたって知識表現とオントロジーの可能性を追求してきた、AI史における記念碑的な取り組みです。
その道のりは、膨大な知識を手作業で入力するという困難との戦いであり、実用化の面では限定的だったという評価もあります。しかし、知識を形式的に表現し、論理的に推論することの重要性、そして**「常識」というものの捉えどころのなさ**を、私たちに改めて教えてくれます。
現代のAIがデータから驚くべき能力を獲得する一方で、その判断根拠の不透明さや常識の欠如が課題となる中、Cycが追求した透明性や論理的一貫性は、未来のAI開発において再び重要な意味を持つかもしれません。記号的なアプローチと統計的なアプローチが融合するハイブリッドAIの時代が来るとすれば、Cycの長年の探求はその礎となるでしょう。
Cycプロジェクトの物語は、私たちに問いかけます。「真に知的なAIとは何か?」「AIに『当たり前』を教えることは可能なのか?」――その答えを探す旅は、まだ始まったばかりなのかもしれません。
参考文献リスト
- Wikipedia contributors. “Cyc.” Wikipedia, The Free Encyclopedia.
- xexeq.jp. 「Cycプロジェクトとは?オントロジーによる知識ベース構築の全貌」
- Mattari AI. 「Cycプロジェクトとは?その概要と歴史、応用事例を解説」
- tt-tsukumochi.com. 「【G検定】Cycプロジェクトとは?概要やOpenCyc・ResearchCycについて解説」
- zero2one.jp. 「エキスパートシステムとは?仕組みや歴史、具体例をわかりやすく解説」
- Gigazine. 「40年近く『人間の常識』をAIに教え込んできたCycプロジェクト創設者がLLMとCycの統合によるAIの進化について語る」
- Stephen Wolfram Writings. “A Fifty-Year Quest: My Personal Journey with Artificial Intelligence.”
- https://www.nytimes.com/2023/09/04/technology/douglas-lenat-dead.html
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